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ベトナムからやってきた狸にサングラス! [essayessay]

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 家人がポンちゃんと呼んでいる狸の置物、晴れても照っても、雪が降っても、にぬれそぼっても狭い裏庭の隅っこで愛嬌をふりまいている。

 狸の置物といえば信楽焼と相場がきまっているが、ポンちゃんは、そんなブランド狸ではない。ベトナムからやってきて、近くのホームセンターで、わずか980円で売られていた代物である。

 小さいけれども不思議な存在感があって、ときおり進入してくる野良猫は、なにやらウサン臭そうにながめ、気味悪そうに避けて通ってゆく。

 今冬、あの大雪の朝、ポンちゃんは降り積もった雪に埋まってしまった。わずかに首だけ出しているさまが妙におかしくて、雪が溶けるまで笑われていた。

 4月になって、昼間は陽差しがきつくなった。いくらベトナム産だといっても、やはり暑かろう……というわけで、使い古しのサングラスをかけてやった。
 

お江戸日本橋舟運まつり! [essayessay]

01.jpg 午前8時(10月30日)……。
 地下鉄の三越前でおりて中央通りに出ると、雲間から薄日がもれていた。どうやら穏やかな一日になりそうであった。日曜日で朝まだ早いせいか、街はまだ静まりかえっていた。あと2時間もたてば、日本橋を中心としたこの界隈は人の波で埋めつくされるであろうに、行き来するクルマは少なく、人もまばらであった。

02.jpg お江戸日本橋、かつて日本橋は五街道の起点であり、花のお江戸の、いや日本の代表的なランドマークであった。現在の日本橋界隈は高層ビルが林立、日本橋も高速道路の影に沈んで、存在感は薄れているが、いぜんとして「日本橋」は東京を代表するブランドとして機能している。たとえば界隈には「三越」「山本山」「栄太楼」「にんべん」「はいばら」などの老舗が多く、いずれも店名の肩書きにちゃんと「東京・日本橋」をそえることをわすれないのである。

03.jpg ところで、日本橋、いったい、いつ、だれが命名したのか? 
 いろんな説があるようだ。橋のどまんなかに立てば、朝な夕なに江戸の東西南北が見わたせて、富士山までもみえる。こんな橋はほかにはない。日本一の橋だというので「日本橋」としたという説。江戸にはいるにはこの橋を渡らねばならないから「日本橋」と名付けられたという説。日本全国の里程標の起点になっているから…という説。ちょっとウサン臭い説としては、もとは丸太を二本わたした橋であったからというもの。それなりに納得さ04.jpgせられそうなのは、家康が江戸にやってきたとき、日本国中の人間をあつめてつくった橋だから……という説。実にさまざまだが、いずれにしても、いつのまにか、そのように呼ばれるようになったというのが真相らしい。

 現在の石造二連アーチの橋は1911年(明治44)につくられたものだという。関東大震災にも東京大空襲にも堪えてきたのだから、重要文化財として相当な重みがある。

05.jpg その「日本橋」の架橋100周年の記念行事が、この日、おこなわれるというのである。ぼくは、ひょんなきっかけで、そのイベントのひとつ「お江戸日本橋舟運まつり」に参加することになって、駆けつけてきたのであった。

 日本橋周辺はかつて、物資の集散地として江戸の経済をささえていた。物流の主役をなしていたのが舟運だった。日本橋架橋100 周年を記念して、「日本橋川舟運」の姿を復活させる。小江戸といわれ舟運のさかんだった川越、栃木、香取から和舟をだして、日本橋に集結するというのが舟運まつりのあらましであった。

 舟運がとだえて久しい現在、とてつもないプランである。仕掛け人というか、プロデューサーとつとめたのはイベント会社のKさんだが、最初にその話を聞いたとき、そんなことがほんとうにできるのかどうかいぶかしんだ。それが実現したのはK氏の熱意にくわえて後援者、スポンサーにもめぐまれたからだろうと思う。

 舟は総計15隻である。御用船、お囃子船あり、荷舟、嫁入り舟など、お江戸日本橋をめざして日本橋川をパレードする。ぼくは4隻でなる川越船団のに荷舟に乗せてもらうことになっていたたのである。

06.jpg 乗船者の集合場所になっているビルは、新しい日本橋の街並を象徴するような、いかにも現代感覚にあふれたビルだった。6階のホールにゆくと、室内はすでに泡立っていた。舟運まつりにくりだす15隻の舟にのりこむ人たちの着替えがはじまっていたのである。

 色鮮やかな袢纏や法被をまとい、チョンマゲ姿の人たちが右往左往しているではないか。紋付き羽羽織姿あり、裃、袴姿あり……。そのうちにお囃子組のリハーサルがはじまり、鉦や笛、太鼓の音がひびきわたる。ビルの一角にあるそこだけが、「花のお江戸」にタイムスリップしたようであった。

 23日の川越新河岸での舟行列と同じく、ぼくは着物に着替え、馬乗り袴をつけ、陣羽織をはおり、足袋に草鞋を履いた。頭には笠をつける。商人ふうでも町衆ふうでもない。まるで素浪人とおぼしき風体である。米俵や樽をつんだ荷船のまもり役という役どころらしいが、どうもコンセプトがいまひとつよくわからない。だが、お祭りなのだから、そんなことはどうでもよいのである。

 江戸時代にタイムスリップしたままの出で立ちで、ビルをとびだして日本橋まで、中央通りを日本橋にむかってかりかりと歩いた。まさかそんな姿で日本橋界隈を歩こうとは考えてもみなかった。草鞋履きでアスファルトの道を歩くのははじめてのこと、なんとも足の裏がしっくりこなくて、妙なぐあいだった。

07.jpg 日本橋の船着場から、屋形船でひとまずパレードの出航地である茅場町までくだり、そこから川越船団の荷舟にのりこんだ。舟の中央には米俵が三俵、そして樽が突き込まれていた。新河岸川のときは小型和船だったが、こんどは和船でも、ひとまわりおおきい舟でエンジンがついていた。

 なにせ15隻の舟をひとつづつ船着場によせて乗船するのだから、なんともはや時間がかかる。最初にのりこんだぼくたちは、およそ30分あまりも川面でゆられながらスタンバイしていた。

 出発の合図が出たのは10時50分すぎ、ようやく神主さまをのせた神田舟を先頭に、川越船団(4隻)、栃木船団(4隻)、香取船団(6隻)というならびで茅場町の船着場を出発していった。

 川越の船団は藩主に扮する川合市長ほか市のお偉いさんがたをのせた御用船が先頭、甲冑姿の火縄銃鉄砲隊がつづき、そして笛や鉦、太鼓の奏者を乗せたお囃子隊、最後がぼくたちの荷船という順でつづいた。

 川面にひびきわたる祭り囃子にさそわれるように、舟は一列になって、ゆっくりと川をさかのぼっていった。風もなく波もなかった。

 かつて魚河岸もあり、大小の舟が行き来していたであろう日本橋川、いまはコンクリートのビルという峰のあいだをのびるかのようである。ふと見上げると、鋼鉄の高速道路が川の上をのびており、空というものがまったくない。舟は川をゆくというよりも、交差する高速道路をくぐるという風情であった。そういう日本橋川のすがたは舟運が陸運にとってかわられた時代を、よくものがたっている。

09.jpg 橋の上には多くの人たちがつめかけていた。茅場橋、鎧橋、江戸橋、カメラフラッシュがあちこちで瞬いた。みんな笑顔で手をふっていた。

 エンジンつきの舟である。わずか10分あまりさかのぼると、もう日本橋がかなたにみえてきた。橋のうえには幾重にも折り重なるおびただしい人の群れ、その視線はみんな眼下の川面と舟にそそがれていた。

 高速道路にもぐってしまった橋も、薄暗い影になってしまっている日本橋川も、日ごろはだれも目にとめることはないだろう。だが、この日ばかりは、多くの観衆の視線をあびて、歴史の重みと存在感を自己主張している。橋の上をみあげ、なんども手を振って応じながら、ふとそんなふうに思った。


http://gallery.nikon-ima

川越「新河岸川舟行列」乗舟記 [essayessay]

◇船頭さんの笠

000.jpg 川堤に笠がぽつりとひとつ……。
 竹の骨のうえに編んでしつらえた船頭さんの笠である。おそらく新河岸川ゆかりの船頭さんのものだろう。新河岸…と墨書された文字も味があっていかにも雰囲気がある。
 おそらく、ながねん陽の光をあび、風雨にさらされ、波しぶきをかぶってきたのだろう。いかにも使いこまれたという年輪をかんじさせる代物であった。
 川越・新河岸川の舟運がなくなって久しいが、いまだに、腕利きの船頭さんがいる。歴史感覚の分厚さを思い知らされた。
 午前7時すぎに旭橋にゆくと、たもとの舟着場では、「舟行列」につかわれる舟の引き下ろしがはじまっていた。伊勢安の駐車場には関係者がいそがしそうに行き来している。紅白の幕がはられ、式典の準備もすすんでいるようだった。
 舟行列には4隻の和舟がつらなるが、そのうちの1隻、荷舟にのせえもらうことになった。それはひとえに新河岸川舟運にまつわる歴史小説『武州かわごえ繋舟騒動』を書いた縁によるものである。
 イベントのプロデューサーというべきか仕掛人というべきか、Kさんに「乗せてもらえらば……」と冗談まじりに口にしたら、実現してしまったというわけだが、ひとえに懐のひろい川越の関係者のみなさまのご好意によるものである。
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 日枝神社の社務所ではすでに着替えがはじまっていた。行列の先頭を切る火縄銃鉄砲のみなさんの甲冑姿があった。
 羽織・袴に足袋をはいて草鞋を履く……。それが私に課せられた扮装である。だがもとより着物なんか着たこともない。袴の前・後ろはおろか、紐をどのように結べばいいのかもわからない。まるで着付ができないのである。
 そんな体たらくの私をみかねて鉄砲隊保存会の寺田会長が、懇切丁寧に着付けをしてくださった。かくしてようやくお祭りに参加する扮装ができあがったのである。そのころになると出発式のおこなわれる広場では太鼓、お囃子のひびきがもれてきた。
 8時すぎになるとセレモニー会場には藩主、家老、町奉行などに扮した市長をはじめ川越市のお偉いさんがたの姿がそろい踏み、いずれも紋付き羽織に馬乗り袴、白足袋に草履、それに陣笠をかぶるという出で立ちであった。


◇お江戸日本橋舟運まつりの出発セレモニー

002.jpg 新河岸川舟行列は東京・日本橋の架橋100年を記念しておこなわれる「日本橋架橋100年祭」(10月30日)のイベントのひとつ、「日本橋お江戸舟運まつり」の出発セレモニーである。
 お江戸舟運まつりは、御用船、荷舟、嫁入り舟など、およそ15艘の舟を日本橋界隈を運航させ、当時の賑わいぶりを再現しようというイベントである。舟は関東で小江戸といわれる3つの市(川越市・栃木市・香取市)を出発、当日、日本橋船着場に集結することストーリーになっている。
 本番の舟運まつりに先だって、川越市では10月23日(日)に出航セレモニーをおこない、「新河岸川舟行列」として、甲冑姿の火縄銃鉄砲隊やお囃子、川越城主や家老役の人々が乗りこんだ御用舟、米俵をつんだ荷船など和舟4隻を、新河岸(旭橋)から引又河岸(志木市)までおよそ10㎞をくだることになったのである。
 新河岸川舟運を行っていた当時の出立ちを再現、和舟4艘で川越を出発して、かつて河岸があり、舟運ともゆかりふかかった河岸に立ちより、川越藩主に扮した市長が同地の首長(市長)さんから、お江戸日本橋架橋100周年にお祝いをのべる親書を預かり、それを10月30日に江戸・日本橋で中央区の区長にとどけるというのが、この舟行列に課せられたお役目であった。

003.jpg もともとは「日本橋 お江戸舟運まつり」を主催する「名橋『日本橋』保存会」から川越市に、新河岸川~荒川~隅田川を舟でくだってこられないかという問い合わせがあり、それが、きっかけになったという話である。
 ところが川越市などが所有するのは小型の和舟でエンジンがつけられない。流れが急になる荒川本流に出るのは危険がともなう。さらに途中には堰などもあることから日本橋までの運航はほとんど不可能である。そこで川越市の旭橋からからふじみ野市を通って志木市までをくだる計画になったのである。
 数日間降り続いた雨も、この朝になってすっかりあがった。前日は水位が50センチもあがって、開催があやぶまれたという。だが、もう雨が落ちてくることもなく、まったく風もない。この季節にすれば、気温はかなり高めで、ねがってもない舟日和であった。


◇舟歌に送られて出航!

004.jpg 予定より10分遅れて、まずは藩主さまを乗せた御用舟をまもる鉄砲隊舟である。甲冑に身をかため火縄銃をもった勇壮な武士5人がのりこみ、鉦、太鼓、笛からなるお囃子舟(竹生会のみなさん)がつづき、そして陣笠をかぶったお殿様、ご家老様たちを乗せた御用舟、そして最後は米俵と樽をつんだ荷舟という順で出航していった。





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 詰めかけた多くの土地のみなさんのみまもられ、元船頭さんたちの舟歌、川越舟歌ともいわれ千住節ともいわれる歌声……。

 九十九曲りエー仇では越せぬ(アイヨノヨー)遠い水路の三十里……

 ドスの利いた節回しを耳にながら、流れにまかせてくだってゆく舟のなかで揺られ、腕時計もつけず、コンデジも持たず、ゆっくりと過ぎてゆく時の流れに身をゆだけていると、ほんとうに遠い昔にタイムスリップしたような気分になるから不思議なものである。
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 ふと土堤をみあげると、多くの人たちが舟を追うように下流にむかって移動している。老いも若きもこどもたちも……。いや、追うというのではない。
「歩いてる人のほうが速いや」
 船頭さんが笑ったように、歩いている人よりも舟のほうがおそいのだから、見物にかけつけた人たちに寄りそわれて、舟はくだっていったのである。


◇思わぬハプニングありの舟旅!

007.jpg 新河岸川は川とはいえほそい流れである。事実そのように思ってきた。
 だが、見下ろす川と、実際に川面におりてみた川はまるでちがう。狭いといわれる旭橋界隈でも、川はいがいと広いのである。川幅も一様ではない。さらに浅瀬あり、深瀬あり、淀みあり、急流あり、あちこちに岩や巨石、古杭などもある。
 船頭さんの眼線からすれば変化にみちているのである。障害物がないか。そして流れを読んで、船頭さんは棹一本で舟を航路にのせてゆく。これがなかなか一筋縄ではゆかないのだ。
 かつて舟運華やかなりしころ、船頭はすべて川筋を読みきっていた。どこに岩があり、どこに杭があるのかも頭のなかにはいっていた。だから目をつむっていても棹一本で舟をあやつることができっという。
 古文書によると、逆に、わざと古杭に舟をのっかからせ、破船・難船をよそおって、荷をうばうというトラブルもあったらしい。
 舟運がなくなって、最近ではほとんど新河岸川を舟でゆくことはないという。花見の季節に観光舟を出すことがあるが、それは、むしろ旭橋よりも上流を行き来するだけで、今回のように志木までくだるというのは初めてだという。
 それゆえに前と後ろの舟縁に立つ新河岸商栄会の船頭さんたちは、行く手の流れをよまねばならない。舟はすぐには止まれないだけに、かなり神経をちりちりさせていたようであった。
 川幅がひろくなれば川底は浅くなり、狭くなれば深くなる。最初に舟をつける福岡河岸は養老橋のそばにあった。そこで御用舟の藩主さま一行は下船して、ふじみ野市長から新書をうけとるのだが、流れが速くて接岸はかんたんではなかった。
 河岸で親書の授受式が行われているあいだ、御用舟いがいは水上で待機するのだが、流れに翻弄されて、舟は容易に定まらない。あげくに岸の茂みに突っ込んで、小枝に額をひっかかれるやら、茂みのブヨを頭からひっかぶるやら……。ま、こういうこともある。
 福岡橋では、さらに舟は難渋した。下船しないで橋のたもとになる大杉神社に参拝する。大杉神社は「舟魂」さまといわれ、船頭や舟問屋の守り神である。上り下りする舟はかならず参拝したという故事にならって、船上からお参りした。
 ところが、橋桁のあたりは、思いがけなく急流だった。こともあろうに御用舟が流れにもっていかれて、横向きになり、橋桁と杭のあいだにひっかかって動けなくなった。船頭さんひとりと市のサポート隊のひとりが、胸のあたりまで水につかって悪戦苦闘、ようやく舳先を前にまわして、通過するというありさまだった。
 それにしても……。舟魂さまは船頭の守り神のはず。なのに罪なことをするものだ。それとも賽銭が少なかったというわけなのか。
「こんなところに天龍くだりがあるとは思わなかった」
 ながく後方待機して、橋をくぐりうけたとき、船頭さんは、いみじくも、そういって笑った。


◇そうか! 歓迎されているのか!

008.jpg 伊佐島河岸で殿様が富士見市長の親書をうけとったあと、全員が下船、南畑の神社でトイレ休憩、昔も今も南畑では船頭や乗組員が下船するものらしい。昔は飲屋や船頭相手の旅籠があったらしいが、われわれはトイレ休憩、お茶を一杯いただいて、ふたたび乗船である。
 そこから先の川筋は人の手でととのえられていて、流れも安定していた。雲間から薄日がさしはじめ、いかにものどかな船旅になった。川面にはお囃子舟の奏者がかなでる祭り囃子がひびきわたるなか、舟はしずしずとくだってゆく。
 橋の上や、土堤にはあいかわらず見物にくりだした人がたえることがなかった。視線のひくい舟上から陸を見上げると、風景はまたちがってみえる。ちいさな子どもたちから、若いカップル、オバちゃん、オジちゃんまで、みんな顔がほころんでいる。笑顔でけんめいに手をふってくれていた。
 舟というものは詩心をかきたてるらしい。
 フネというフネ、舟から船まで不思議な魅力をもって私たちの心をひきつける。空と海、あるは空と川面という、とらえどころのない流転の修羅場にさからって、人間どもは文明に利器と知恵でもって自己主張する。とくに木と竹と人力による和舟なんぞ、その単純なありようが人の心を惹くのだろう。流れに棹さして、あるいは逆らって、ゆるゆる進み、のたうつ姿がいかにも健気で、孤独な心を和ませたり、優しい心をよびおこしたりするのだろうと思う。
 志木に近づいたころである。両側の土堤をみあげると花ひらいたコスモスがつらなっていた。
 もう少し……がんばって! と声がかかる。
花嫁さんがくるのかと思った」
 と言ったのは中年の女性、「ジジイばかりで悪かったですねえ」と、思わず苦笑いである。
 だが、こんど機会があったら、史実にはなくても「花嫁舟」を出すのもアイディアとして悪くはないだろう。
 水際までおりてきたひとりのおばあさん、「みなさん、歓迎します!」と、むしりとった笹をしきりにふりながら、満面に笑顔。そうか……歓迎されているんだ……と、わけのわからないナットクのしかたをする。
 20分ていどの休憩をはさんでおよそ4時間、舟にゆられているうち、さすがに臀部や足腰が痛くなってきた。
 引又がまもなく……というとき、ふと土堤をみあげると、浮き輪を前かごに積んだ自転車が舟によりそうようにゆっくり走っていた。
 川越市観光課の誰かさんである。そういえば舟が立ち寄る河岸には、つねに観光課の職員の誰かさんが先回りして接岸をサポートする姿があった。水に胸まではいって濡れそぼつ姿もあった。これは、俗にいう「お役所仕事」の域をはるかに突破している。見あげた根性、さすがは観光都市・川越の観光課というべきか。
 引又河岸に降り立って、志木、朝霞、和光の3市からの親書を受けとる最後の儀式に連なりながら、ふと、空をみあげると雲間から汗ばむほどの陽の光が雲間からふりそそいでいた。
 4時間あまりは長かったのか短かったのか。すぐには判別がつかないが、翌日になってもまだ舟に乗っているかのように躯がゆらりゆらりと揺れつづけていた。


▽掲載写真:撮影は川越在住のグラフィックデザイナー・松永庄平さんです。(2枚目から9枚目まで)blogの構成上、サイズは小さくなってしまいましたが、オリジナル版は、シャープに撮れています。(松永さん、ごめんなさい!)

舟運まつり! 復活! 川越舟の船頭に扮装! [essayessay]

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江戸時代、さらには鉄道・電車が敷設される大正期の前半まで、江戸と川越を結ぶ新河岸川舟運は物流の大動脈であったことは、別の日記(http://ekiden.blogspot.com/2011_04_01_archive.html)でのべた通りです。

 その新河岸川舟運が、この春、東京日本橋の架橋100年を記念して再現される予定でしたが、おりからの東日本大震災で「日本橋架橋100年祭」そのものがひとたび中止となっておりました。

 ところが……。秋になってあらためて記念行事がおこなわれることにきまり、「日本橋お江戸舟運まつり」も開催(10月30日)がきまりました。

 御用船、荷舟、嫁入り舟など、およそ15艘の舟を日本橋界隈を運航させ、当時の賑わいぶりを再現しようというのです。舟は関東で小江戸といわれる3つの市(川越市・栃木市・香取市)を出発、当日、日本橋船着場に集結することになっています。

 本番の舟運まつりに先だって、川越市では10月23日、栃木市では10月10,16,22,24日にに出航のセレモニーがおこなわれます。

 川越では10月23日(日曜日)セレモニーのあと、「新河岸川舟行列」として、甲冑(かっちゅう)姿の鉄砲隊やお囃子(はやし)、川越城主や家老役の人々が乗り込んだ和舟4隻が、川越市から志木市まで約10キロをくだります。

 川越舟運の当時の姿を復活させようというもくろみは、もともと「日本橋 お江戸舟運まつり」を主催する「名橋『日本橋』保存会」から川越市に、新河岸川~荒川~隅田川を舟でくだってこられないかという問い合わせがあったのが、きっかけになったという話です。

 ところが川越市などが所有するのは小型の和舟でエンジンがつけられない。流れが急になる荒川本流に出るのは危険がともなう。さらに途中には堰などもあることから日本橋までの運航はあきらめ、川越市の旭橋からからふじみ野市を通って志木市までをくだる計画となりました。

 当日は午前9時、川越市下新河岸にある旭橋の船着き場から、川越藩火縄銃鉄砲隊を乗せた舟を先頭に、「お囃子舟」、川合善明市長らが城主や家老、町奉行姿で乗り込む「川越城主舟」、さらに荷舟をくわえた計4隻が出発します。福岡、伊佐島、引又の河岸跡では各市長から「親書」をうけとり、10月30日の当日に日本橋で中央区の区長に届けることになっているようです。

 10月02日の「お江戸舟運まつり」では、川越市とともに「小江戸サミット」に参加している栃木県栃木市、千葉県香取市の舟と、川越市の舟が、日本橋川河口から日本橋船着き場までを水上パレードします。

 小生は『武州かわごえ繋舟騒動』を書いた機縁で、舟が川越を出発する10月23日と舟運祭り当日の30日、川越市の荷舟に乗せてもらうことになりました。当時の舟手にふさわしく袢纏かなにか、それらしい扮装で乗船するというのですが、果たしてどんな出で立ちになるのか楽しみにしております。

 舟運まつりを岸からみるのではなく、舟の側からみるというのは、またなにか新しい発見があるやもしれない。そういう意味で貴重な体験になること、まちがいありません。



▽お江戸日本橋舟運祭りについて


http://www.nihonbashi-tokyo.jp/event/20111029.html

http://www.nikkyo.net/index.html

http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2011/0915_02/download/20110915.pdf

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新島襄を落札した! [essayessay]

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 ひょんななりゆきで「楽天オークション」をのぞいたら、たまたま切手になった「新島襄」が出品されているのをみつけた。ほとんど衝動的に最低価格で入札応募したら、競合相手が現れず、そのまますんなり落札となって拍子ぬけしてしまった。

 学生時代のサークルの知人とそんな経緯をメールで語りあっていたら、かれは使用済みの同切手をわざわざ郵送してくれた。かくしてぼくの手もとには、現在、未使用、使用済みと2枚の「新島襄」切手がそろったというわけである。

 同切手は1949年(昭和24)から1952年(昭和26)にかけて発行された「文化人切手」シリーズの一枚である。初回は国民的英雄とたたえられていた野口英世(医学者)で、1949年(昭和24)の文化の日(11/3)に発行されている。
 第2回以降は福沢諭吉(教育者1950 2/3)、夏目漱石(文学者 4/10)、坪内逍遥(文学者 5/23)、9代目市川団十郎(歌舞伎俳優 9/13)、新島襄(教育者 11/22)、狩野芳崖(日本画家 1951 2/27) 内村鑑三(宗教者 3/23)、樋口一葉(作家 4/10) 森鴎外(文学者 7/9)、正岡子規(俳人 9/19)、菱田春草(日本画家 9/21)、西周(哲学者 1952 1/31) 梅謙次郎(法学者 8/25)、木村栄(天文学者 9/26)、新渡戸稲造(教育者 10/16)、寺田寅彦(科学者 11/3)、岡倉天心(画家 11/3)となっている。

 かつて……といっても中学から高校時代にかけてのころ、ぼくも熱心な切手蒐集家のひとりであった。むろん「文化人切手」シリーズの存在はよく承知してはいたが、それほど興味はなく、同シリーズとは縁がなかった。だから「新島襄」は所持していなかった。

 けれども、よくかんがえてみれば新島襄が生涯を賭して設立に情熱をそそいだ同志社を出て、いつしか著作のうえでも新島襄にふかく関わるようになっている。そんな自分がネットオークションで、いまあらためて校祖に遭遇したのも何かの縁というものではないか。ただの偶然でもあるまい。それに261円というのは、こりゃなんだ! そんな心の遍歴があってオークションの入札にのりだしたようである。

 オークションの競合相手がいて、競り合いになったら、行きがかりで、もっと高値の競りになっても対抗していたであろう。(笑)

 切手になった文化人18人がどんな基準で選ばれたのかは知るよしもないが、戦後まもなくのわが日本では、誰もがみとめる代表的な文化人に数えられていたことはまぎれもない事実だろう。

 18人のうちには教育者として福澤諭吉、新渡戸稲造とならんで新島襄が名を連ねている。だが、現在、なぜか新島襄について知る人はすくない。福澤や新渡戸はお札にもなったせいかもしれないが、この二人にくらべると、新島はどうも分がわるいというのが実情である。

 長くなるから詳しくは措くが、理由はいくつかある。後世に残るような著書を残さなかったことも、そのひとつだろう。新島襄はいかにもキリスト者らしく謙虚であった。まちがっても自分を売り込むようなマネはしなかったからなあ……と、思案にふけっていると、ふいに襄のことばがよみがえってきた。

「大人にならんと欲せば、自ら大人と思う勿れ」

 これは襄が徳富蘇峰におくった別れのことばである。自分に叛旗を翻して去って行く弟子にもかかわらず、襄は不肖の弟子に慈愛に満ちた視線をそそいでいたのである。

 2枚の切手をしげしげとみつめながら、いかにも新島襄らしいなあ……と思わずつぶやいている自分がいた。
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