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上方落語「まんじゅう怖い」と友惠堂(4-完) [essayessay]

blog_01.jpg 落語「まんじゅう怖い」の大阪・宗右衛門町の友惠堂と京都の友惠堂、両者の店名は一字としてちがっていない。「恵」も旧字の「惠」のままである。単なる偶然の一致であろうか。
 そうは思えないのである。
 もしかして京都の友惠堂の祖(おや)が、大阪の友惠堂ではないのか。まったくありえないことでもないだろう。ながねん、そんなふうに思ってきた。
 京都の友惠堂本店の先々代店主(創業者)に訊けばわかっただろうが、はるか昔に他界してしまっている。別家としていちばん古い下京の店主(わが親父)も30年まえに死んでいる。存命中に、聞き出す機会がないわけではなかったが、そのころの私はまるで無頓着で興味もなかったのである。
 もし、なんらかの繋がりがあるとすれば……。「味」の伝承がなされてなければならない。だが、それも、いまとなっては、菓子の現品をもって確認する手立てがない。追跡もここまでか、と思いきや、ちょっと待てよ、池波正太郎のエッセイを再読して、おもしろいことを書いてるじゃないか…とにわかに勇み立った。

「餡に塩味がする。甘味に塩の香りがただよっている。」(前掲の「大阪ところどころ」)という部分にあらためて眼をみはったのである。
 餡の隠し味に塩をつかう。これぞ京都・友惠堂の「味」の特徴のひとつであった。
 事実、餡にうまく塩を使うと、甘さがひときわ際立つ。深みのある重層的な甘みがうまれるのである。さすがは食通をもって知られる池波正太郎である。ちゃんとそこをおさえている。
 塩をはっきり舌で感じてはいけない。池波がいうように「甘味に塩の香りがただよっている」というふうでなくてはならないのである。
 わが親父どのは、まさにその「塩梅」こそがむずかしいのだと、よく得意げに語っていたのを憶えている。

 最近、たまに自分でも羊羹づくりで漉し餡を炊くことがあるが、いつも投入する塩の量に腐心する。甘味にくわえる塩というものは驚くほどよく効くのである。いわば真剣の一発勝負。ほんの少しでも過ぎてしまうと、もう取り返しがつかない。失敗するたびに親父どのの嘲笑う顔がちらつくのである。
 秘伝というほどの大仰なものではないから、わが親父どのもレシピなんてものはのこしていない。そのときどきの材料の質量と気候を勘案して、いつも目分量で対処いていた。いわば五感で体得した職人技というものである。

「餡」は 生菓子の根幹、いわば遺伝子みたいなものである。だから「餡」の味に類似性があるとすれば、やはりなんらかの縁(えにし)でつながっている……と確信したのだが、物事はそれほど単純なものではないようだ。
やっと一縷のよりどころを見つけたと思いきや、それに冷や水をぶっかけるような傍証も、つい最近みつけてしまったのである。
 商標のデザインが決定的にちがう!
 どちらの友惠堂もともに日本の伝統的な文様「ともえ」柄を商標にしている。ともえの図柄にはふた通りある。「ふたつともえ」と「みつどもえ」である。
blog_02.jpg 京都のほうは 写真にあるように「二つともえ」である。ところが、大阪のほうは四天王寺の大太鼓に描かれているのと同じ「三つともえ」(http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB123)なのである。名物といわれた太鼓饅頭にも、おそらく同じ三つどもえの焼印を押したのだろう。
 さらに京都の友惠堂には、この太鼓饅頭という品が定番にないのである。
 根っこのどこかでつながっているはずだ、と信じて疑わなかったのだが、そんなこんなで、かなり怪しくなってきたのである。

 だが、しかし……である。
 同じ店名をもつ本格派の和生菓子舗が、現在も京都に二店舗あって、街のおまん屋さんとして商いをつづけている。それは確かな事実である。最中や薯蕷をはじめ、{まんじゅ怖い}に出てくるほとんどの饅頭がいまも定番として店頭にならんでいるのである。
 おりから今年は六代目笑福亭松鶴没後30年にあたる。
 大阪と京都の縁の有無はひとまず棚上げにするとして、なんとか友惠堂の看板商品といわれたあの太鼓饅頭を現代仕様で復刻できないものか。
 8品そろったところで「まんじゅう怖い」セットなるものをしつらえ、上方落語の中興の祖を追悼するというのはどんなものだろう。

上方落語「まんじゅう怖い」と友恵堂(3) [essayessay]

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松鶴の『まんじゅう怖い』にとりあげられている数ある菓子舗のなかで、文芸作品に登場するのは友惠堂のみである。
 大阪の庶民に眼をむけた作家として知られるあの織田作之助の小説には友惠堂がしばしば出てくる。
 たとえば「婚期はずれ」(1940年作)には次のようなくだりがある。
「友恵堂の最中が十個もはいっていた。それが五百袋も配られたので、葬礼の道供養にしては近ごろよくも張り込んだものだと、随分近所の評判になった。いよいよ配る段になると、聞き伝えて十町遠方さきからも貰いに来て、半時間経つと、一袋も残らず、葬礼人夫は目がまわった。」

 1941年に刊行されたものの、反軍国主義であるとして、すぐに発禁処分(なぜ軍国主義に反するのか、さっぱりわからん)になった中編『青春の逆説』にも「最中」が出てくる。
「某日、軽部の同僚と称して、薄地某が宗右衛門町の友惠堂の最中を手土産に出しぬけに金助を訪れ、呆気にとられている金助を相手に四方山の話を喋り散らして帰って行き、金助にはさっぱり要領の得ぬことだった。」(同時期の短編「雨」にも、なぜか、そっくりそのまま同じ一文がある)

 さらに1942年発表、1956年には辰巳龍太郎主演で映画化(日活)され、あのベンゲットのターやんが登場する「わが町」でも、やはり最中である。
「理髪店朝日軒では、先年葬礼の道供養に友惠堂の最中を二百袋も配って、随分近所の評判になった。 袋には朝日軒と書かれてあり、普通何の某家と書くところを、わざとそうしたのは無論宣伝のためであったろう。」

faces_02.jpg 織田作之助が贔屓にしていた店のひとつだったとみてまちがいなかろう。ただし最中がことのほか好きだったというよりも、作中ではいずれも贈答品という設定だから、あえて日持ちのする最中を選択したのだろうと思われる。

 池波正太郎もエッセイでなんどか、この友惠堂についてふれている。織田作の場合は戦前だが、池波の場合は戦後の昭和40~50年ごろである。 (宗右衛門町の友惠堂はそのころまだ存在したことになる)
 大阪にやってきたときの池波は宗右衛門町を足場にしていた。かつて芝居の仕事をしていたからだという。
「私の定宿は、道頓堀川に架かる相合橋を北へわたった右側にある[大宝ホテル]という小さな宿であった……」(「大阪ところどころ」『散歩のとき、何か食べたくなって』新潮文庫)と書いているように、玉屋町筋にあった。太左衛門橋北詰の友惠堂は、ひとすじ西の笠屋町筋だから、ほどちかいところにあり、いつしか馴染みになったようである。

「それにしても、むかし、私が通った店々のいくつかが、むかしのままに商売をしている姿を、今度、わが目でたしかめてれしかった。
 大宝ホテルから程近い菓子舗の[友惠堂]もその一つである。
 この老舗の菓子の、甘味の程のよさは、大阪という町の、むかしの姿をしんばせるに足ものがある。
 餡に塩味がする。甘味に塩の香りがただよっている。
 最中もよいが、私が好きなのは求肥に砂糖をまぶした益壽糖であり、薯蕷饅頭である。
 大阪に滞在していて、どこかへみやげをもって行くときは、きまって友惠堂の菓子にしたものだった。」(前掲の書)

 それにしても池波正太郎は、よほど友惠堂が気に入っていたようである。「さすがに大阪の老舗」とほめちぎっている。

「食事をすませ、笠屋町の、これも古い菓子舗[友惠堂]へ行くと、折から定休日であった。 しかし、ガラス戸の向うに、外出姿の女店員が一人いたので、
東京から来たのだが、益壽糖が残っていたら、売ってくれませんか。休みのときにすまないけど……」
 ガラス戸を開けて、こういったら、
「さあ、さあ、どうぞ、お入りください」
 と、女店員が笑いかけてきて、すぐさま、、注文の菓子を包んでくれた。
 さすがに大阪の老舗である。
 いまの東京の老舗は、いかがであろうか……。
 心斎橋をぶらぶらしてから、ホテルにもどり、少憩の後、新幹線で帰京する。
 車中は小雨。
 家へ向うタクシーの中でも、友惠堂の女店員の親切さがおもい出された。(「京都から大阪へ」『新しいもの 古いもの』講談社文庫所収)昭和51年)

織田作も池波も太鼓饅頭についてはひとこともふれていない。舌の肥えたかれらにしてみれば看板商品とはいえ、平凡でありふれてみえたのだろう。あくまで本命は最中であり、薯蕷であり、益壽糖などであった。いずれも生菓子の王道をゆく品であり、これをみるかぎり「まんじゅう怖い」で語られる友惠堂は保守本流の和生菓子の老舗であったことがわかる。
 だが、織田作、そして池波が贔屓にしたそんな名店も時うつり、いつしか暖簾をおろしてしまう。昭和50年代の半ばぐらいのころだろう。おそらくは後継者がなかったせいとみる。こぢんまりと身内だけで切り盛りしている町の名店の運命というものである
 京都にはかつて4店の友惠堂があった。中京区の友惠堂本店、そこから暖簾分けした別家が下京と右京、左京の三店である。本店は大正中期の創業、別家のうち戦前からの店は下京で、右京と左京は戦後の開店である。別家三店の主はいずれも、ながねん本店で徒弟として修業しているから、職人のワザと味はしっかりと受け継がれている。
 京都の4店はながく自立と連帯に関係にあったが、わが生家である下京の別家は昭和50年に廃業してしまった。私が後継を放擲したからである。続いて本店も2年ほどまえに店を閉めた。やはり後継者を欠いたからである。かくして現在のこるのは右京と左京の二店となっている。

(織田作之助の小説はいずれも青空文庫[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person40.html]で閲覧できます)

上方落語「まんじゅう怖い」と友惠堂(2) [essayessay]

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 上方落語『まんじゅう怖い』には、米朝、枝雀のバージョンもある。だが、演題にもなっている「まんじゅう」について、店名と品目を特定して、具体的に列挙しているのは、松鶴のバージョンだけである。
 先に引用した噺のくだりに登場する「大阪で一流の饅頭」を整理すると、次のようになる。
*橘屋……へそ
*亀沢……袱紗(ふくさ)
*甘泉堂……栗饅頭
*高砂屋……薯蕷(じょうよ)
*友惠堂……太鼓饅頭
*湖月堂……最中
*駿河屋……羊羹(ようかん)
*ひさご屋……罌粟餅(けしもち)

 栗饅頭、太鼓饅頭、最中、羊羹についてはあえて説明する必要はなかろう。
 へそは赤紫の羽二重餅で白餡をつつみ、まんなかをくぼませてある。
 袱紗というのは「袱紗包み」から命名されたものである。鉄板にどら焼の生地を流し クレープのようにまるくひろげて焼きあげる。その生地の焼き色のあるプレーンなほうを内側にして粒餡を「ふくさ包み」にしたものである。
 薯蕷(じょうよ)というのは上用饅頭ともいわれる。饅頭のうちで極上のもの。薯蕷とは大和芋、山芋、つくね芋などをいう。わが生家はつくねいもをつかっていたが、これを饅頭の皮に用いた蒸し饅頭が「薯蕷饅頭」、むろん餡も小豆も甘味料も吟味した最上のものがつかわれている。薯蕷をみればその店の「格」がわかるといわれる。シンプルな品だが職人の技倆が問われる基本商品である。
 罌粟餅はやわらかい求肥(ぎゅうひ=白玉あるいは餅粉に砂糖や水飴を加えて練りあげたもの)を皮にして、漉し餡をつつんだ球状のネタの表面に罌粟の実をびっしり貼りめぐらせたもの。

「まんじゅう怖い」に抜擢された8店は、おそらく昭和20~30年代にかけて大阪で評判をとった店なのだろう。落語に出てくるからには、いずれもその当時、聴衆の誰もが知っている名店中の名店だったにちがいない。そして、それぞれの看板商品をラインナップしたのだろうが、驚くべきはそのバランスの良さである。
 まんじゅうには焼いたもの、蒸したもの、餅饅頭など、いくつものジャンルがあるが、ひとつとしてアイテムに重複がないのだ。さらに、たとえば桜餅、柏餅、月見だんごなど季節商品をはぶいて、年間をつうじて店頭にならぶ定番をつらねている。 季節をとわない落語の演目だからというわけか。

 松鶴がとりあげた8店のうち、橘屋と駿河屋をのぞく6店まではすでに店を閉めてしまっているようである。生菓子協同組合の名簿にも記載がない。
 橘屋は橘屋寿永のことで享保年間の創業というから老舗。戎橋南詰角にあったというが現在は同地にはなく、東心斎橋にあるらしい。
(http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB084)
 甘泉堂は島之内とあるが、ラベルには相合橋が描かれているので、周辺の玉屋町筋近辺、つまり宗右衛門町あたりにあったものと推測される。
http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB201
 高砂屋は平野町3丁目にあったという「高砂」のことか。ラベルには「御餅、饅頭所」とある。
http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB178
 湖月堂は太左衛門橋北詰を北に入ったところにあった。和洋菓子製造舗とある。
http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB08
 駿河屋は当時、高麗橋1丁目にあったらしい。
http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB164

 亀沢とひさご屋の所在はいまひとつよくわからない。亀沢は島之内界隈、ひさご屋もほかの店と同じようにおそらくミナミのどこかにあったのだろう。

 さて、件(くだん)の友惠堂だが、天保期創業だというから、橘屋とならぶ老舗である。所在地は太左右衛門橋北詰とあるが、牧村史陽著『大阪ことば事典』によれば島之内笠屋町とあり、古いものでは宗右衛門町とするものもある。ほかに池波正太郎のエッセイ「京都から大阪へ」によると笠屋町とある。
 だが、よく調べてみると、いずれも同じ立地を指しており、地名変更や区の統合などの影響で、いくつもの表記になってしまったようである。
 ようするに南北にのびる笠屋町筋(三休筋ともいう)にあって、場所は道頓堀川にかかる太左右衛門橋の北詰、現在では宗右衛門町ということになる。
http://haya.bitter.jp/label/result.php?num=LB121

 友惠堂の看板商品は太鼓饅頭とある。太鼓饅頭とは円盤状の焼き菓子で今川焼、大判焼とおなじものである。型にはめて焼く加工度のひくい菓子ゆえ、とても老舗の御菓子司の看板商品とは思えない。おそらく写真のようなプレーンな大判焼ではなくて、友恵堂ゆえに、雷太鼓をイメージして「ともえ」の図柄をあしらった焼印が押されていたのだろう。
 本命の看板商品というよりも、ミナミの繁華街という立地からみて、大衆ウケをもくろんだ、客寄せ商品のひとつだったとみるべきだろう。
 ほんとうの友惠堂はどんな「おまんや」さんだったのか。店を閉めてしまっているから実像をつきとめるのは、かなりきびしいものがある。店の世評と販売していた饅頭などから、そのあたりを探ってみたい。

上方落語「まんじゅう怖い」と友惠堂(1) [essayessay]

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 笑福亭松鶴の落語『まんじゅう怖い』は40分をこえる大ネタである。「あそこに出てくる饅頭屋、あんたの実家ちゃうか?」という輩がいて、そんなことあるわけがない」と笑い飛ばした。だが好奇心にかられて、かれがYouTubeにアップされているという松鶴のバージョンを聞いてみた。好テンポの大阪ことばでくりひろげられる噺に、たちまちひきこまれてしまった。
 顔見知りの何人かがあつまり、それぞれ嫌いなもの、怖いものを言いあっている。世の中に怖いものなどない、と豪語する男「みっつぁん」、だが、問い詰められて本当は「まんじゅう」が嫌いだと白状。そんな話をしているだけで、気分が悪くなったと長屋へかえってしまう。残った連中は「あいつを饅頭攻めにしてやろう」としめしあわせて、それぞれ饅頭を買ってくる。……
 話がそこまで来て、次のくだりで、あれっ、ちょっと待てよ! と、ひっかかってしまった。
「おい、あの、ともえどう の たいこまんじゅう」
 たいこまんじゅうとは太鼓饅頭のことだろう。ならば「ともえどう」というのは屋号だろうが、どんな字面にになるのか? たしかに、わが生家の屋号と同音なのである。
 そこで笑福亭松鶴(5代、6代)著『上方落語』(講談社)をとりあえず図書館から借りてきて繰ってみた。問題の個所はおよそ次の通りである。
「……今言うてる饅頭、これもそこらの駄菓子屋に売ってる安物の饅頭じゃあかんで。え。大阪で一流の饅頭みな買うてきて集めて、そいで、そいつをば持っていくねや」
「あ、なるはど。早いこと行っといで、俺も行ってくるさかい」
「お! 行ってきたわ。うん。俺、あの、これ、橘屋のへそ張り込んで買うてきた」
「なるはど、橘屋のへそ、なかなか上物やな」
「オイ、わいとこは、亀沢の袱紗や」
「ほうら、また上品な饅頭買うてきたやないか」
「お前が一流の饅頭買うてこいちゅうさかい」
「おい、わいのとこ、あの甘泉堂の粟饅頭や」
「甘泉堂の栗饅頭。洒落たあんな」・
「おい、高砂屋のじょうよや」
「ほうら、またええ饅頭やな」
「おい、あの、友惠堂の太鼓饅頭や」
「わいとこ、あの、湖月堂の最中や」
「おい、わいとこは、あの、駿河屋の羊羹でもええかいな」
「ま、ま、羊羹でも饅頭のうちに入るやろ。いやいや、これだけみな揃うたらええわ。そいでお前わい」
「わいかい。わいは、あの、ひさご屋の罌粟(けし)餅買うてきてあるさかい」
「なるほど、ええ饅頭仰山あつめたなア。……」
 ともえどう、は友惠堂…となっている。生家の屋号とまったく同じである。落語に登場する友惠堂は大阪である。古典落語に登場するぐらいだから、歴史あり、由緒ある生菓子店にちがいない。わが生家は京都にあって、中京にある本家から暖簾分けしてもらった別家のひとつであった。
 大阪と京都の「友惠堂」、いったいつながりがあるのかどうなのか。いったい大阪の友惠堂というのはどんな店だったのか? かくしてぼくの友惠堂のルーツ探しがはじまったのである。

大阪文学学校、なんと10年ぶり! [essayessay]

 わが母港である大阪文学学校(http://www.osaka-bungaku.or.jp/)へ行ってきた。一昨日の(1/19)のこと。およそ10年ぶりのことである。

「どのように調べて小説を書くか」をテーマにして、昨年8月から11月にかけて6冊ほど世に送った拙著にまつわるエピソードの一端をかいつまんでお話しした。(http://osaka-bungaku.asablo.jp/blog/2013/01/17/6693860

 最近、40分ぐらいで声のスタミナが切れてくる。おそらく寄る年波のせいなのだろう。なんとか、喉をだましだまして最後までたどりついたが、おそらく聴きずらかったのではないかと反省することしきり。

 ほかにも話すことはたくさんあったが、またしても多くを積み残して尻切れトンボにおわった。書く場合はなんどでもやり直しが利くが、お話はやり直しが利かないから始末がわるくてどうしようもない。

 普通の講演会ではない。聞き手の人たちのほとんどは「書くこと」をめざす人たちである。そういう意味でかつて何年かまえの自分の姿も会場のどこかあったのだ。

 まとまりのない話しにもかかわらず、熱心に耳をかたむけてもらったが、ひとつでもそんな人たちの心にひびくものがあったかどうか。

 第2部は飲食ありのいわば懇親会。会場はたちまち模様がえされて、いくつもの談笑の輪ができあがる。昔からいつも変わらぬ風景である。

 拙著『小説・新島襄とその妻』にちらと登場する人物の遠縁にあたるという女性が二人もいてちょっと驚いてしまった。

 さらに2次会……。天王寺の白木屋に場所をうつしてビールそして焼酎! およそ30年ぶりの懐かしい顔に邂逅、思いがけなかった。

 文校とそれをとりまいて小宇宙をなす文学の小集団、老いも若きも、ベテランであろうと初心者であろうと、そんなものは何の関係もない。ここは志を同じくする者たちの道場というべきで、人に出会って人に学ぶ場なのである。

 時代がかかわっても、そういう雰囲気がいまも変わらぬものとしてそこにあることにちょっと感動した。

 2次会がハネてから、投宿することになっている旅荘で3次会、かつての雑誌のメンバーといっても小生にとっては先輩たち、さらにはかれらの雑誌の仲間もくわわった。そのひとりの方がもちこんだ「百年の孤独」を味わううちに夜が更けゆき、気がつくと日付がかわっていた。

 思えばこの「お祝いの会」をひらいてくれたのは、きっと「関東の妙なところに行きやがって、たまには大阪に呼んだろやないか」という、この先輩方の親心だったにちがいない。いずれもいまなお文学の萬年青年として健在で、かれらからも元気をもらった。
http://osaka-bungaku.asablo.jp/blog/2013/01/21/

さくら色の八重 [essayessay]

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 NHK大河ドラマ「八重の桜」はいよいよ本日6日にスタートする。
 そんなおりからタイミングよく最新増刷の『小説・新島八重 会津おんな戦記』『小説新島八重 新島襄とその妻』のサンプル届いた。

 増刷になるたびにオビの色が微妙に変わるのだが、今回はなんと「さくら色」である。 さくら色した八重さん2人、テーブルに置いて、第1回放映を観るとしよう。

 さて、ドラマのほうは……
 会津の女として成長してゆく八重、少女期から娘になってゆく八重、その一方、ペリーの来航で激震の江戸、京都で勇み立つ若者たち、そのなかには兄の覚馬、夫になる尚之助がいるという設定らしい。郷里会津の八重、そして江戸・京都の日本の近代をひらこうとする若者たち……という二極の様相を提示してドラマは進むようだ。

 その二つの流れが合体するとき、会津の、そして八重の運命は大きく揺すぶられ、波乱万丈の展開になりというわけあのだろう。主役の綾瀬はるか、準主役の西島秀俊がそのあたり、どのように演じきるのか。前半の見どころはそのあたりになる。

 覚馬を演じる西島、キャラクターとしては少し線が細いかと思ったが、なかなかどうして、かなり良い線いっているとみた。心配なのはむしり主役八重を演じる綾瀬のほうなのだが、きわどい綱渡りを、なんとかしのぐだろうとみている。

ベトナムからやってきた狸にサングラス! [essayessay]

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 家人がポンちゃんと呼んでいる狸の置物、晴れても照っても、雪が降っても、にぬれそぼっても狭い裏庭の隅っこで愛嬌をふりまいている。

 狸の置物といえば信楽焼と相場がきまっているが、ポンちゃんは、そんなブランド狸ではない。ベトナムからやってきて、近くのホームセンターで、わずか980円で売られていた代物である。

 小さいけれども不思議な存在感があって、ときおり進入してくる野良猫は、なにやらウサン臭そうにながめ、気味悪そうに避けて通ってゆく。

 今冬、あの大雪の朝、ポンちゃんは降り積もった雪に埋まってしまった。わずかに首だけ出しているさまが妙におかしくて、雪が溶けるまで笑われていた。

 4月になって、昼間は陽差しがきつくなった。いくらベトナム産だといっても、やはり暑かろう……というわけで、使い古しのサングラスをかけてやった。
 

お江戸日本橋舟運まつり! [essayessay]

01.jpg 午前8時(10月30日)……。
 地下鉄の三越前でおりて中央通りに出ると、雲間から薄日がもれていた。どうやら穏やかな一日になりそうであった。日曜日で朝まだ早いせいか、街はまだ静まりかえっていた。あと2時間もたてば、日本橋を中心としたこの界隈は人の波で埋めつくされるであろうに、行き来するクルマは少なく、人もまばらであった。

02.jpg お江戸日本橋、かつて日本橋は五街道の起点であり、花のお江戸の、いや日本の代表的なランドマークであった。現在の日本橋界隈は高層ビルが林立、日本橋も高速道路の影に沈んで、存在感は薄れているが、いぜんとして「日本橋」は東京を代表するブランドとして機能している。たとえば界隈には「三越」「山本山」「栄太楼」「にんべん」「はいばら」などの老舗が多く、いずれも店名の肩書きにちゃんと「東京・日本橋」をそえることをわすれないのである。

03.jpg ところで、日本橋、いったい、いつ、だれが命名したのか? 
 いろんな説があるようだ。橋のどまんなかに立てば、朝な夕なに江戸の東西南北が見わたせて、富士山までもみえる。こんな橋はほかにはない。日本一の橋だというので「日本橋」としたという説。江戸にはいるにはこの橋を渡らねばならないから「日本橋」と名付けられたという説。日本全国の里程標の起点になっているから…という説。ちょっとウサン臭い説としては、もとは丸太を二本わたした橋であったからというもの。それなりに納得さ04.jpgせられそうなのは、家康が江戸にやってきたとき、日本国中の人間をあつめてつくった橋だから……という説。実にさまざまだが、いずれにしても、いつのまにか、そのように呼ばれるようになったというのが真相らしい。

 現在の石造二連アーチの橋は1911年(明治44)につくられたものだという。関東大震災にも東京大空襲にも堪えてきたのだから、重要文化財として相当な重みがある。

05.jpg その「日本橋」の架橋100周年の記念行事が、この日、おこなわれるというのである。ぼくは、ひょんなきっかけで、そのイベントのひとつ「お江戸日本橋舟運まつり」に参加することになって、駆けつけてきたのであった。

 日本橋周辺はかつて、物資の集散地として江戸の経済をささえていた。物流の主役をなしていたのが舟運だった。日本橋架橋100 周年を記念して、「日本橋川舟運」の姿を復活させる。小江戸といわれ舟運のさかんだった川越、栃木、香取から和舟をだして、日本橋に集結するというのが舟運まつりのあらましであった。

 舟運がとだえて久しい現在、とてつもないプランである。仕掛け人というか、プロデューサーとつとめたのはイベント会社のKさんだが、最初にその話を聞いたとき、そんなことがほんとうにできるのかどうかいぶかしんだ。それが実現したのはK氏の熱意にくわえて後援者、スポンサーにもめぐまれたからだろうと思う。

 舟は総計15隻である。御用船、お囃子船あり、荷舟、嫁入り舟など、お江戸日本橋をめざして日本橋川をパレードする。ぼくは4隻でなる川越船団のに荷舟に乗せてもらうことになっていたたのである。

06.jpg 乗船者の集合場所になっているビルは、新しい日本橋の街並を象徴するような、いかにも現代感覚にあふれたビルだった。6階のホールにゆくと、室内はすでに泡立っていた。舟運まつりにくりだす15隻の舟にのりこむ人たちの着替えがはじまっていたのである。

 色鮮やかな袢纏や法被をまとい、チョンマゲ姿の人たちが右往左往しているではないか。紋付き羽羽織姿あり、裃、袴姿あり……。そのうちにお囃子組のリハーサルがはじまり、鉦や笛、太鼓の音がひびきわたる。ビルの一角にあるそこだけが、「花のお江戸」にタイムスリップしたようであった。

 23日の川越新河岸での舟行列と同じく、ぼくは着物に着替え、馬乗り袴をつけ、陣羽織をはおり、足袋に草鞋を履いた。頭には笠をつける。商人ふうでも町衆ふうでもない。まるで素浪人とおぼしき風体である。米俵や樽をつんだ荷船のまもり役という役どころらしいが、どうもコンセプトがいまひとつよくわからない。だが、お祭りなのだから、そんなことはどうでもよいのである。

 江戸時代にタイムスリップしたままの出で立ちで、ビルをとびだして日本橋まで、中央通りを日本橋にむかってかりかりと歩いた。まさかそんな姿で日本橋界隈を歩こうとは考えてもみなかった。草鞋履きでアスファルトの道を歩くのははじめてのこと、なんとも足の裏がしっくりこなくて、妙なぐあいだった。

07.jpg 日本橋の船着場から、屋形船でひとまずパレードの出航地である茅場町までくだり、そこから川越船団の荷舟にのりこんだ。舟の中央には米俵が三俵、そして樽が突き込まれていた。新河岸川のときは小型和船だったが、こんどは和船でも、ひとまわりおおきい舟でエンジンがついていた。

 なにせ15隻の舟をひとつづつ船着場によせて乗船するのだから、なんともはや時間がかかる。最初にのりこんだぼくたちは、およそ30分あまりも川面でゆられながらスタンバイしていた。

 出発の合図が出たのは10時50分すぎ、ようやく神主さまをのせた神田舟を先頭に、川越船団(4隻)、栃木船団(4隻)、香取船団(6隻)というならびで茅場町の船着場を出発していった。

 川越の船団は藩主に扮する川合市長ほか市のお偉いさんがたをのせた御用船が先頭、甲冑姿の火縄銃鉄砲隊がつづき、そして笛や鉦、太鼓の奏者を乗せたお囃子隊、最後がぼくたちの荷船という順でつづいた。

 川面にひびきわたる祭り囃子にさそわれるように、舟は一列になって、ゆっくりと川をさかのぼっていった。風もなく波もなかった。

 かつて魚河岸もあり、大小の舟が行き来していたであろう日本橋川、いまはコンクリートのビルという峰のあいだをのびるかのようである。ふと見上げると、鋼鉄の高速道路が川の上をのびており、空というものがまったくない。舟は川をゆくというよりも、交差する高速道路をくぐるという風情であった。そういう日本橋川のすがたは舟運が陸運にとってかわられた時代を、よくものがたっている。

09.jpg 橋の上には多くの人たちがつめかけていた。茅場橋、鎧橋、江戸橋、カメラフラッシュがあちこちで瞬いた。みんな笑顔で手をふっていた。

 エンジンつきの舟である。わずか10分あまりさかのぼると、もう日本橋がかなたにみえてきた。橋のうえには幾重にも折り重なるおびただしい人の群れ、その視線はみんな眼下の川面と舟にそそがれていた。

 高速道路にもぐってしまった橋も、薄暗い影になってしまっている日本橋川も、日ごろはだれも目にとめることはないだろう。だが、この日ばかりは、多くの観衆の視線をあびて、歴史の重みと存在感を自己主張している。橋の上をみあげ、なんども手を振って応じながら、ふとそんなふうに思った。


http://gallery.nikon-ima

川越「新河岸川舟行列」乗舟記 [essayessay]

◇船頭さんの笠

000.jpg 川堤に笠がぽつりとひとつ……。
 竹の骨のうえに編んでしつらえた船頭さんの笠である。おそらく新河岸川ゆかりの船頭さんのものだろう。新河岸…と墨書された文字も味があっていかにも雰囲気がある。
 おそらく、ながねん陽の光をあび、風雨にさらされ、波しぶきをかぶってきたのだろう。いかにも使いこまれたという年輪をかんじさせる代物であった。
 川越・新河岸川の舟運がなくなって久しいが、いまだに、腕利きの船頭さんがいる。歴史感覚の分厚さを思い知らされた。
 午前7時すぎに旭橋にゆくと、たもとの舟着場では、「舟行列」につかわれる舟の引き下ろしがはじまっていた。伊勢安の駐車場には関係者がいそがしそうに行き来している。紅白の幕がはられ、式典の準備もすすんでいるようだった。
 舟行列には4隻の和舟がつらなるが、そのうちの1隻、荷舟にのせえもらうことになった。それはひとえに新河岸川舟運にまつわる歴史小説『武州かわごえ繋舟騒動』を書いた縁によるものである。
 イベントのプロデューサーというべきか仕掛人というべきか、Kさんに「乗せてもらえらば……」と冗談まじりに口にしたら、実現してしまったというわけだが、ひとえに懐のひろい川越の関係者のみなさまのご好意によるものである。
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 日枝神社の社務所ではすでに着替えがはじまっていた。行列の先頭を切る火縄銃鉄砲のみなさんの甲冑姿があった。
 羽織・袴に足袋をはいて草鞋を履く……。それが私に課せられた扮装である。だがもとより着物なんか着たこともない。袴の前・後ろはおろか、紐をどのように結べばいいのかもわからない。まるで着付ができないのである。
 そんな体たらくの私をみかねて鉄砲隊保存会の寺田会長が、懇切丁寧に着付けをしてくださった。かくしてようやくお祭りに参加する扮装ができあがったのである。そのころになると出発式のおこなわれる広場では太鼓、お囃子のひびきがもれてきた。
 8時すぎになるとセレモニー会場には藩主、家老、町奉行などに扮した市長をはじめ川越市のお偉いさんがたの姿がそろい踏み、いずれも紋付き羽織に馬乗り袴、白足袋に草履、それに陣笠をかぶるという出で立ちであった。


◇お江戸日本橋舟運まつりの出発セレモニー

002.jpg 新河岸川舟行列は東京・日本橋の架橋100年を記念しておこなわれる「日本橋架橋100年祭」(10月30日)のイベントのひとつ、「日本橋お江戸舟運まつり」の出発セレモニーである。
 お江戸舟運まつりは、御用船、荷舟、嫁入り舟など、およそ15艘の舟を日本橋界隈を運航させ、当時の賑わいぶりを再現しようというイベントである。舟は関東で小江戸といわれる3つの市(川越市・栃木市・香取市)を出発、当日、日本橋船着場に集結することストーリーになっている。
 本番の舟運まつりに先だって、川越市では10月23日(日)に出航セレモニーをおこない、「新河岸川舟行列」として、甲冑姿の火縄銃鉄砲隊やお囃子、川越城主や家老役の人々が乗りこんだ御用舟、米俵をつんだ荷船など和舟4隻を、新河岸(旭橋)から引又河岸(志木市)までおよそ10㎞をくだることになったのである。
 新河岸川舟運を行っていた当時の出立ちを再現、和舟4艘で川越を出発して、かつて河岸があり、舟運ともゆかりふかかった河岸に立ちより、川越藩主に扮した市長が同地の首長(市長)さんから、お江戸日本橋架橋100周年にお祝いをのべる親書を預かり、それを10月30日に江戸・日本橋で中央区の区長にとどけるというのが、この舟行列に課せられたお役目であった。

003.jpg もともとは「日本橋 お江戸舟運まつり」を主催する「名橋『日本橋』保存会」から川越市に、新河岸川~荒川~隅田川を舟でくだってこられないかという問い合わせがあり、それが、きっかけになったという話である。
 ところが川越市などが所有するのは小型の和舟でエンジンがつけられない。流れが急になる荒川本流に出るのは危険がともなう。さらに途中には堰などもあることから日本橋までの運航はほとんど不可能である。そこで川越市の旭橋からからふじみ野市を通って志木市までをくだる計画になったのである。
 数日間降り続いた雨も、この朝になってすっかりあがった。前日は水位が50センチもあがって、開催があやぶまれたという。だが、もう雨が落ちてくることもなく、まったく風もない。この季節にすれば、気温はかなり高めで、ねがってもない舟日和であった。


◇舟歌に送られて出航!

004.jpg 予定より10分遅れて、まずは藩主さまを乗せた御用舟をまもる鉄砲隊舟である。甲冑に身をかため火縄銃をもった勇壮な武士5人がのりこみ、鉦、太鼓、笛からなるお囃子舟(竹生会のみなさん)がつづき、そして陣笠をかぶったお殿様、ご家老様たちを乗せた御用舟、そして最後は米俵と樽をつんだ荷舟という順で出航していった。





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 詰めかけた多くの土地のみなさんのみまもられ、元船頭さんたちの舟歌、川越舟歌ともいわれ千住節ともいわれる歌声……。

 九十九曲りエー仇では越せぬ(アイヨノヨー)遠い水路の三十里……

 ドスの利いた節回しを耳にながら、流れにまかせてくだってゆく舟のなかで揺られ、腕時計もつけず、コンデジも持たず、ゆっくりと過ぎてゆく時の流れに身をゆだけていると、ほんとうに遠い昔にタイムスリップしたような気分になるから不思議なものである。
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 ふと土堤をみあげると、多くの人たちが舟を追うように下流にむかって移動している。老いも若きもこどもたちも……。いや、追うというのではない。
「歩いてる人のほうが速いや」
 船頭さんが笑ったように、歩いている人よりも舟のほうがおそいのだから、見物にかけつけた人たちに寄りそわれて、舟はくだっていったのである。


◇思わぬハプニングありの舟旅!

007.jpg 新河岸川は川とはいえほそい流れである。事実そのように思ってきた。
 だが、見下ろす川と、実際に川面におりてみた川はまるでちがう。狭いといわれる旭橋界隈でも、川はいがいと広いのである。川幅も一様ではない。さらに浅瀬あり、深瀬あり、淀みあり、急流あり、あちこちに岩や巨石、古杭などもある。
 船頭さんの眼線からすれば変化にみちているのである。障害物がないか。そして流れを読んで、船頭さんは棹一本で舟を航路にのせてゆく。これがなかなか一筋縄ではゆかないのだ。
 かつて舟運華やかなりしころ、船頭はすべて川筋を読みきっていた。どこに岩があり、どこに杭があるのかも頭のなかにはいっていた。だから目をつむっていても棹一本で舟をあやつることができっという。
 古文書によると、逆に、わざと古杭に舟をのっかからせ、破船・難船をよそおって、荷をうばうというトラブルもあったらしい。
 舟運がなくなって、最近ではほとんど新河岸川を舟でゆくことはないという。花見の季節に観光舟を出すことがあるが、それは、むしろ旭橋よりも上流を行き来するだけで、今回のように志木までくだるというのは初めてだという。
 それゆえに前と後ろの舟縁に立つ新河岸商栄会の船頭さんたちは、行く手の流れをよまねばならない。舟はすぐには止まれないだけに、かなり神経をちりちりさせていたようであった。
 川幅がひろくなれば川底は浅くなり、狭くなれば深くなる。最初に舟をつける福岡河岸は養老橋のそばにあった。そこで御用舟の藩主さま一行は下船して、ふじみ野市長から新書をうけとるのだが、流れが速くて接岸はかんたんではなかった。
 河岸で親書の授受式が行われているあいだ、御用舟いがいは水上で待機するのだが、流れに翻弄されて、舟は容易に定まらない。あげくに岸の茂みに突っ込んで、小枝に額をひっかかれるやら、茂みのブヨを頭からひっかぶるやら……。ま、こういうこともある。
 福岡橋では、さらに舟は難渋した。下船しないで橋のたもとになる大杉神社に参拝する。大杉神社は「舟魂」さまといわれ、船頭や舟問屋の守り神である。上り下りする舟はかならず参拝したという故事にならって、船上からお参りした。
 ところが、橋桁のあたりは、思いがけなく急流だった。こともあろうに御用舟が流れにもっていかれて、横向きになり、橋桁と杭のあいだにひっかかって動けなくなった。船頭さんひとりと市のサポート隊のひとりが、胸のあたりまで水につかって悪戦苦闘、ようやく舳先を前にまわして、通過するというありさまだった。
 それにしても……。舟魂さまは船頭の守り神のはず。なのに罪なことをするものだ。それとも賽銭が少なかったというわけなのか。
「こんなところに天龍くだりがあるとは思わなかった」
 ながく後方待機して、橋をくぐりうけたとき、船頭さんは、いみじくも、そういって笑った。


◇そうか! 歓迎されているのか!

008.jpg 伊佐島河岸で殿様が富士見市長の親書をうけとったあと、全員が下船、南畑の神社でトイレ休憩、昔も今も南畑では船頭や乗組員が下船するものらしい。昔は飲屋や船頭相手の旅籠があったらしいが、われわれはトイレ休憩、お茶を一杯いただいて、ふたたび乗船である。
 そこから先の川筋は人の手でととのえられていて、流れも安定していた。雲間から薄日がさしはじめ、いかにものどかな船旅になった。川面にはお囃子舟の奏者がかなでる祭り囃子がひびきわたるなか、舟はしずしずとくだってゆく。
 橋の上や、土堤にはあいかわらず見物にくりだした人がたえることがなかった。視線のひくい舟上から陸を見上げると、風景はまたちがってみえる。ちいさな子どもたちから、若いカップル、オバちゃん、オジちゃんまで、みんな顔がほころんでいる。笑顔でけんめいに手をふってくれていた。
 舟というものは詩心をかきたてるらしい。
 フネというフネ、舟から船まで不思議な魅力をもって私たちの心をひきつける。空と海、あるは空と川面という、とらえどころのない流転の修羅場にさからって、人間どもは文明に利器と知恵でもって自己主張する。とくに木と竹と人力による和舟なんぞ、その単純なありようが人の心を惹くのだろう。流れに棹さして、あるいは逆らって、ゆるゆる進み、のたうつ姿がいかにも健気で、孤独な心を和ませたり、優しい心をよびおこしたりするのだろうと思う。
 志木に近づいたころである。両側の土堤をみあげると花ひらいたコスモスがつらなっていた。
 もう少し……がんばって! と声がかかる。
花嫁さんがくるのかと思った」
 と言ったのは中年の女性、「ジジイばかりで悪かったですねえ」と、思わず苦笑いである。
 だが、こんど機会があったら、史実にはなくても「花嫁舟」を出すのもアイディアとして悪くはないだろう。
 水際までおりてきたひとりのおばあさん、「みなさん、歓迎します!」と、むしりとった笹をしきりにふりながら、満面に笑顔。そうか……歓迎されているんだ……と、わけのわからないナットクのしかたをする。
 20分ていどの休憩をはさんでおよそ4時間、舟にゆられているうち、さすがに臀部や足腰が痛くなってきた。
 引又がまもなく……というとき、ふと土堤をみあげると、浮き輪を前かごに積んだ自転車が舟によりそうようにゆっくり走っていた。
 川越市観光課の誰かさんである。そういえば舟が立ち寄る河岸には、つねに観光課の職員の誰かさんが先回りして接岸をサポートする姿があった。水に胸まではいって濡れそぼつ姿もあった。これは、俗にいう「お役所仕事」の域をはるかに突破している。見あげた根性、さすがは観光都市・川越の観光課というべきか。
 引又河岸に降り立って、志木、朝霞、和光の3市からの親書を受けとる最後の儀式に連なりながら、ふと、空をみあげると雲間から汗ばむほどの陽の光が雲間からふりそそいでいた。
 4時間あまりは長かったのか短かったのか。すぐには判別がつかないが、翌日になってもまだ舟に乗っているかのように躯がゆらりゆらりと揺れつづけていた。


▽掲載写真:撮影は川越在住のグラフィックデザイナー・松永庄平さんです。(2枚目から9枚目まで)blogの構成上、サイズは小さくなってしまいましたが、オリジナル版は、シャープに撮れています。(松永さん、ごめんなさい!)

舟運まつり! 復活! 川越舟の船頭に扮装! [essayessay]

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江戸時代、さらには鉄道・電車が敷設される大正期の前半まで、江戸と川越を結ぶ新河岸川舟運は物流の大動脈であったことは、別の日記(http://ekiden.blogspot.com/2011_04_01_archive.html)でのべた通りです。

 その新河岸川舟運が、この春、東京日本橋の架橋100年を記念して再現される予定でしたが、おりからの東日本大震災で「日本橋架橋100年祭」そのものがひとたび中止となっておりました。

 ところが……。秋になってあらためて記念行事がおこなわれることにきまり、「日本橋お江戸舟運まつり」も開催(10月30日)がきまりました。

 御用船、荷舟、嫁入り舟など、およそ15艘の舟を日本橋界隈を運航させ、当時の賑わいぶりを再現しようというのです。舟は関東で小江戸といわれる3つの市(川越市・栃木市・香取市)を出発、当日、日本橋船着場に集結することになっています。

 本番の舟運まつりに先だって、川越市では10月23日、栃木市では10月10,16,22,24日にに出航のセレモニーがおこなわれます。

 川越では10月23日(日曜日)セレモニーのあと、「新河岸川舟行列」として、甲冑(かっちゅう)姿の鉄砲隊やお囃子(はやし)、川越城主や家老役の人々が乗り込んだ和舟4隻が、川越市から志木市まで約10キロをくだります。

 川越舟運の当時の姿を復活させようというもくろみは、もともと「日本橋 お江戸舟運まつり」を主催する「名橋『日本橋』保存会」から川越市に、新河岸川~荒川~隅田川を舟でくだってこられないかという問い合わせがあったのが、きっかけになったという話です。

 ところが川越市などが所有するのは小型の和舟でエンジンがつけられない。流れが急になる荒川本流に出るのは危険がともなう。さらに途中には堰などもあることから日本橋までの運航はあきらめ、川越市の旭橋からからふじみ野市を通って志木市までをくだる計画となりました。

 当日は午前9時、川越市下新河岸にある旭橋の船着き場から、川越藩火縄銃鉄砲隊を乗せた舟を先頭に、「お囃子舟」、川合善明市長らが城主や家老、町奉行姿で乗り込む「川越城主舟」、さらに荷舟をくわえた計4隻が出発します。福岡、伊佐島、引又の河岸跡では各市長から「親書」をうけとり、10月30日の当日に日本橋で中央区の区長に届けることになっているようです。

 10月02日の「お江戸舟運まつり」では、川越市とともに「小江戸サミット」に参加している栃木県栃木市、千葉県香取市の舟と、川越市の舟が、日本橋川河口から日本橋船着き場までを水上パレードします。

 小生は『武州かわごえ繋舟騒動』を書いた機縁で、舟が川越を出発する10月23日と舟運祭り当日の30日、川越市の荷舟に乗せてもらうことになりました。当時の舟手にふさわしく袢纏かなにか、それらしい扮装で乗船するというのですが、果たしてどんな出で立ちになるのか楽しみにしております。

 舟運まつりを岸からみるのではなく、舟の側からみるというのは、またなにか新しい発見があるやもしれない。そういう意味で貴重な体験になること、まちがいありません。



▽お江戸日本橋舟運祭りについて


http://www.nihonbashi-tokyo.jp/event/20111029.html

http://www.nikkyo.net/index.html

http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2011/0915_02/download/20110915.pdf

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